《《唐沢寿明の生い立ち~ブレイクまで》》
2015/03/17
現在は一流の俳優として第一線で活躍する唐沢寿明さんですが、ここまで来るのには数々の試練がありました。
勘当され、己の身一つで芸能界入り。
長い下積み時代を経て、ようやく開花されました。
一体彼の人生にはどのような試練が待ち構えていたの
でしょうか。ご覧下さい。
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プロフィール
唐沢寿明(からさわ としあき)
本名 唐沢潔(からさわ きよし)
生年月日 1963年6月3日
出身 東京都台東区
身長 175㎝
血液型 A型
所属 研音
幼少期~中学まで
東京都台東区の下町にて男3人兄弟の次男として生を受けます。
小さい頃はとてもやんちゃで、躾に厳しかった父からよく怒られていました。
食事に関しては、箸の持ち方から姿勢、マナーに至るまで細かく教えられたそうです。
小学校時代には漫画家を夢見て、授業中に自作の『怪傑コチョマン』という漫画を書いており、後に出版社に投稿するも、画力の無さから諦めています。
周囲の人を笑わせるのが好きで、担任の先生からは通知表に
「落語家になりなさい」
と書かれたというエピソードもあります。
怪傑コチョマンもギャグ漫画だったのでしょうか。
子供時代には空手を習っており、ブルース・リーを見て憧れたといいます。
また、この頃みたテレビに俳優の橋爪功さんが悪役として出ており、
それが嫌で泣いたといいますが、それが演技だと知って衝撃を受けます。
徐々に、俳優になるという夢が唐沢さんの頭から離れないようになっていきした。
中学生になっても俳優の夢は唐沢さんの心を捉えたままで、
中学3年生のときには遂に行動に出ました。
何の当てもないまま東映の撮影所に行き、守衛のおじさんに(東映にいるのは
全員関係者だと思っていた)俳優になりたい旨を伝えたのです。
しかしそんな事を守衛のおじさんに話しても無意味で、
「とりあえず中学校を卒業してからもう一回来い」
と、あしらわれたのでした。
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高校中退~下積み時代
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それからしばらくして唐沢さんは中学校を卒業し、東京都立蔵前工業高等学校に進学します。
高校生となった唐沢さん。
約1年前に東映の守衛さんと交わした約束を胸に、再び東映を訪ねます。
そして守衛さんにもう一度自分の想いを伝えたのですが、守衛さんは
全く覚えていませんでした。
しかし唐沢さんの熱い思いは届き、無事に東映の養成所(アクション)に入ることが決まります。
東映時代は下積みの連続でした。
俳優として活躍するなど夢のまた夢で、スーツアクターという顔の出ない役
(足軽、仮面ライダーの中の人やショッカー・怪獣の中の人など)ばかりだったと
明かしています。
しかも俳優としての仕事だけでは生活できず、照明・衣装・美術などのスタッフの
手伝いやセブンイレブンでのバイトもしていました。
ちょうどこの頃でしょうか。
昔から夫婦喧嘩の絶えなかった家庭で育った唐沢さん。
原因は横暴な父親にあると判断し、
『出て行け』
と激しい口調で言いました。
すると本当に父親は出て行き、これからは安泰だと思った矢先の出来事。
何と救ってあげたと思った母親の口から衝撃の一言が飛び出すのです。
『あんたが出て行きなさいよ』
唐沢さんはそのまま家出し、新宿行きの電車の中で泣いたといいます。
元々俳優業にしか興味がなく、大学進学を視野に入れていなかった唐沢さんは
高校も中退します。
高校を辞めた後は東映の撮影所に入り浸ります。
とにかく撮影所にいれば目をつけられるだろうという一心で、先に述べたような
スタッフの手伝いまでもこなします。
しかし、いくら頑張っても無名のままでなかなか売れませんでした。
昔から若く見られる唐沢さんは、2歳サバを読んでショーパブに出演することもありました。
このようなどん底時代は約8年続きます。
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待ちに待ったブレイク
ゴールの見えないトンネルをひた走る毎日。
ある時転機が訪れます。
当時研音に所属していた女優・浅野ゆう子さんとの出会いです。
唐沢さんは浅野ゆう子さんの勧めで研音に移籍しました。
そのときあるプロデューサーから
『あんた運が悪いから、寿に明るいで寿明にしな。
それで売れなかったら辞めちゃいな。』
と言われ、芸名を本名の唐沢潔から唐沢寿明に変えました。
売れるためだったら何でもよかったと語る唐沢さん。
改名に迷いはありませんでした。
さらにそのプロデューサーから、アクション俳優ではなく爽やか路線に
切り替えるよう言われ、すぐに路線変更します。
すると、落ち続けたオーディションも、チノパンに、ポロシャツという
爽やかスタイルで挑んだところ次々に合格していきます。
内心爽やか路線はダサいと思っていたようですが、俳優として
生きて行くと決めた彼に迷いはありませんでした。
そして1992年、ドラマ『愛という名のもとに』にてエリート好青年役を演じると、
一気にブレイクします。
長い暗闇のトンネルを抜けた瞬間でした。
このドラマに出て、やっと俳優の仕事だけで生活できそうだと感じたといいます。
このような転機を与えてくれたのは間違いなく浅野ゆう子さんだという思いが
強いため、今でも頭が上がらないそうです。
さて、俳優・唐沢寿明がブレイクするまでをざっと見てきました。
次記事の《《唐沢寿明の嫁・子供。仕事に対する姿勢、名言》》では
妻の山口智子さんとの出会いなど、人生が好転していく様子を
お伝えしたいと思います。
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