浅田真央休養で太った?職業まで変えた父と精神的な強さ
2015/03/17
ソチ五輪を6位入賞で終えた浅田真央。
とにかく一区切りということで現在休養しており、少し
体重が増えたようで太った?と言われています。
両親も人生をかけて浅田真央に全てを投資し、浅田真央も
人生をかけてフィギュアスケートに邁進してきましたが、
2015年は去就について結論を出す年になりそうです。
フィギュアブームの火付け役
フィギュアスケートという競技を日本でここまでメジャーな
競技に押し上げたのは、間違いなく浅田真央でしょう。
浅田真央の破竹の勢いともいえる活躍が現在のフィギュアブームに
火をつけました。
もちろん浅田真央の前にもイナバウアーで有名となった
荒川静香さんなどいらっしゃいましたが、やはり浅田真央には
スター性がありました。
このことについて私たち一般人が考えたとき、才能は
さることながら、とてつもない努力を重ねたんだな、と
思う方が多いのではないでしょうか?
もちろんそれはその通りです。
しかし実際は私たちが思う以上の試練を乗り越えてきたのです。
ただとてつもない努力をしただけではなく、努力以外のさまざまな
試練が存在していたのです。
そのことについて今回ご紹介したいと思います。
浅田舞・真央姉妹に全てを捧げた両親
浅田真央の母(享年48)には自分が達成できなかった
大きな目標がありました。
それはトップレベルのバレエダンサーになること。
この夢について諦めることが出来なかった母は、自分の
娘たちにバレエダンサーの夢を託すことにします。
浅田真央は当初バレエダンサーの道を歩み始めたのです。
その過程で母はバレエダンサーにとって大事な足首を鍛えようと
舞・真央にフィギュアスケートを習わせます。
当初はバレエのためのフィギュアスケートだったのです。
しかし、いざフィギュアを始めると舞・真央ともにめきめきと
上達し、小学生にしてトリプルアクセルを跳ぶという稀有な
才能を発揮していきました。
この活躍を見た両親は決断します。
この子たちをトップレベルのフィギュア選手に育て上げようと。
父は地元では有名なホストクラブを経営していました。
商売も順調で普通の家庭ならば不自由することのない収入を
得ていたと言います。
このこともあって娘たちをフィギュアの世界に送り出すことが
できたのでしょう。
しかし、フィギュアスケートを本格的にやるにはそれでも家計は
火の車だったと言います。
フィギュアスケートはとてもお金のかかる競技で、シューズ・
衣装・コーチ料・登録料など十万単位の費用が必要だったのです。
1年間で大手企業の社員の年収(およそ600万円ほどか)が消える
とも言われています。
これが娘2人ですからおおよその推測でも1年で1500万円ほどは
かかっていたのではないかと思います。
これを両親は工面しなければいけなかったのです。
その甲斐あって、浅田真央がグランプリ優勝し、CM契約などを結んで
年収1億とも言われる収入を得ることができているのですが、
これがあと1年遅かったら間違いなく破産していたとも言われています。
晴れてトップレベルのフィギュア選手となった浅田真央。
父はこれを契機にホストクラブの経営から手を引きます。
有名となった娘の将来を考えての決断だったようです。
自らの仕事を変えてまで娘の事を思う父。
温かみをひしひしと感じます。
両親の期待を背負って
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こういった両親の必死の努力は、一番近くにいる娘であれば
当然わかるものだと思います。
このことを考えてみて、私は浅田真央の精神的な
強さ、ハングリーさを改めて感じました。
自分の両親が身を粉にして自分のために尽くしてくれている。
自分を強くするためだけに人生を賭けている。
自分は強くなって優勝しなければいけない。
これはある意味相当なプレッシャーだったのではないかと
私は想像します。
もちろんライバルに負けたくないという気持ちもあったとは
思います。
しかし、一番は両親の努力に対して何としても応えなければ
という気持ちが大きかったのではないかと思います。
だからこそ高校生のときのインタビューで
「今はフィギュアだけです」
と答えたのだと思います。
こういった背景を、才能があってとてつもない努力を
重ねた結果だという一言で終わらせるのは、なんとも
味気ないものではないでしょうか。
今回は浅田真央の人生について少しだけ触れさせていただきました。
次記事にて浅田真央の去就について、またご紹介したいと
思います。
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